僕の原点

オケ創を作り、「熊本にプロのオーケストラを!」という目標に向かって活動しているが、その僕の原点は今から四半世紀以上も前のアマチュアオーケストラのコンサートだった。

1989年1月のそのコンサートについて、ずいぶんと前に「The Sinfonietta物語」というタイトルで書いたものがあるのでほぼそのままここに公開します。

The Sinfonietta物語

●はじめに

 1989年1月10日(火)熊本県立劇場でアマチュアオーケストラThe Sinfonietta第3回演奏会が、指揮に山下一史、ソリストにベルリン・フィルのコンサートマスター・安永徹、首席ソロチェリスト・オットマール・ボルヴィツキーをむかえてのコンサートが開かれた。曲はベートーヴェンの交響曲第2番、ブラームスのヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲。

 これはまだできて3年しかたっていない地方のアマチュアオーケストラにとっては暴挙ともいえることだ。このコンサートが開かれるまでを思い出しながら書いてみよう。

 私は学生時代は学生オケでたんまりと楽しませてもらった。学生オケというのは大学時代を勉強せずに楽しむ方法としては、なかなかよいものだと今でも思う。しかし、当然のことながら素人の集まりであるわけで、音楽的にはとても稚拙(少なくとも私のいたオケは)でもっと中身を充実させることができるはずだとは、早い時期から何となく感じていた。

 それに聴けば聴くほど深い魅力のあるクラシック音楽であるが、まだまだ愛好者は多いとは思えない。こんなにすばらしいクラシック音楽の魅力をもっとたくさんの人に伝えることはできないかという気持ちも抑えがたいものになってきた。

 そこで、このふたつの欲求を満たすためにアマチュアオーケストラを当時の仲間たちで始めようということになった。そして、The Sinfoniettaがスタートした。

 このオケのコンセプトは、室内オーケストラとしてモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトなどの古典からロマン派にかけての名曲の演奏を中心とすること。そしてアマチュアといえども練習のしかたによっては、人に感動を与える、音楽の魅力の一部を伝えることはできるので、できる限り誠実な練習をして本番に望む。この二つでスタートした。

 第1回のコンサートは指揮に本名徹次氏、ピアノに熊本の財津氏、第2回は指揮とチェンバロに小林道夫氏をむかえて充実した演奏ができたと思う。

 そして、第3回目がそれまでから比べものにならないたいへんなコンサートになったのだ。この第3回演奏会の始まりから終わりまで、順を追って思い出していこう。

●オケを作ろう

 私は大学オケをやっているときに、もっと小編成のオケで古典派の音楽を中心にやてみたいという希望を漠然と持っていた。しかも、徹底的に練習して内容も掘り下げようと。そうして、1986年「The Sinfonietta」が誕生した。同級生、先輩、後輩に声をかけて理想のオーケストラをつくろうと燃えていた。

 最初のコンサートは指揮者に本名徹次さんをむかえて県立劇場でやった。後で聞いたが、メンバーの中にも指揮者やホールにそんなにお金を使わずに、地元の指揮者、もっと小さいホールでやったほうがいいのに、という声もあったそうだ。

 しかし、私はそんなことまったく考えなかった。アマチュアで人様に聴いてもらうのに、低いレベルで妥協することはできない。出来る限りのことはやりたい。

 結果的には第1回演奏会はまあまあの成功といっていいだろう。お客さんも900人くらいきてくれた。

 実はその第1回演奏会の前2か月の大切な時に、40日間のヨーロッパ旅行にでかけた。今思えばとても代表者とは思えない無責任な行動だったが、このことがあとあとすごいことにつながろうとは、その時はもちろん思いもしなかった。

 その大切な時期に熊本を空けられたのは、渋谷君という友達がいたからだ。彼は私がいない間、マスコミをかけまわり熊本のほとんどのテレビ局に取材を依頼し、実際本番前にたくさんニュースで取り上げられた。その他オーケストラのコンサートにつきものの雑務をすべてひとりでこなしていた。今でもとても感謝している。

 第2回はその渋谷君の紹介で小林道夫氏が来てくれてシューベルトの第5交響曲、バッハのチェンバロ協奏曲第1番、ベートーヴェンの交響曲第1番のプログラムでこれまた充実した演奏会だった。小林氏の含蓄溢れる練習は今でも楽しい思い出として心に残っている。

 渋谷君は不思議な男で、ひょんなことから小林道夫さんと友達になってしまたそうだ。小林さんの家に泊めてもらったり、CDをプレゼントされたりと普通では考えられないことが渋谷君のまわりには時々起こる。

 そしていよいよ、第3回演奏会になる。

●出会い-音楽の旅

 1984年2月から4月にかけて、1986年11月から12月にかけての2回、音楽を聴くためにヨーロッパ旅行をした。全くの一人旅で40日間。このときの旅は私に実にたくさんのものをもたらしたが、そのひとつがすばらしい音楽家との出会いだ。ウィーンの篠崎史紀(NHK交響楽団コンマス)ベルリンの山下一史。

 彼らとの出会いは未だに私のに影響を及ぼしている。

 山下氏との出会いは今でもはっきりと覚えている。フィルハーモニーでのポゴレリッチのリサイタル。私が当日券を買おうと並んでいるところに日本人留学生らしき人達が5~6人やってきた。中でもリーダーっぽいひとがいて、みんな「山下、山下」とよんでいる。

 山下氏はその数か月前、カラヤンの代役でベートーヴェンの第九を指揮して、世界中の音楽界のニュースになったものだ。私も音楽雑誌で見てもちろんしっていた。だけどベルリンにいったからといってまさか会えるとは思っていなかった。

 ひょんなことから山下氏と言葉を交わし、コンサートの後で餃子を食べに行こうということになった。私としてはベルリン・フィルはすばらしいが、ベルリンという都会は大きすぎて少し心細かったので、この展開はとってもありがたかった。あとではこのことがとんでもないことにつながるなんてことはもちろん知るよしも無い。

 結果的には4~5回一緒にコンサート終了後、ご飯を食べることになるのだが、カラヤンのアシスタントと直接話が出来るなんて夢のようだった。山下氏の音楽的な話はもちろんとてもおもしろかったが、音楽以外の話も全てとても興味深いものだった。あまりに楽しくてベルリン滞在中はほとんど昼の観光はしないで夜のコンサートと、その後の山下氏との食事に集中した。

 ちょうどアマチュアオーケストラ、The Sinfoniettaをつくったばっかりだったので山下氏に指揮の依頼もしたが、「それは喜んで!」という社交辞令を越えない返事しか得られなかった。

 日本に帰ってから山下氏と、大塚氏(ドイツでバイオリン教師をしている)。このお世話になったふたりに熊本ラーメンを送った。日持ちのしない生ラーメンだったので、エアメールで送った。ラーメン代が3000円、切手代が7000円くらいだった。

 山下氏ともう一度会えたらいいな、と思っていたが、彼が私のことを覚えていてくれているか自信は無かった。

●奇跡!!

 私の親しい友達にNTT勤務の井上さんという人がいるが、彼の寮に遊びに行った。そこはさすがNTTの寮だけあって、電話代がただということだった。それはいいチャンスだと思い、普段ごぶさたしているあちこちに電話した。これは、外国もただかもしれないとウィーンの篠崎史紀、ベルリンの山下一史氏に電話した。篠崎史紀氏が「電話代高いからもうきったほうが・・・」といっても、「今日はただだから大丈夫・・・」、といってゆっくり話すことができた。

 山下氏には思いきって「今度、熊本で私がやっているアマオケのThe Sinfoniettaを指揮してください」と切り出した。そうしたら、来月に日本に帰って当分ホテル・メトロポリタンにいるからそこに電話してほしい、といわれた。おもいきっていってみるものだ。

 ホテルに電話すると時期とかくわしいことは少しずつ決めようと言われ、本当に指揮してもらえるかも知れないと喜んだ。そうして、具体的なプランを決めかかったころ突然、「1989年の1月だったらちょっといいソリストが使えるんだけど。ベルリン・フィルの安永さんとオットマール・ボルヴィツキーのふたりでブラームスやらない?」こういう提案があった。

 思わず受話器を落としそうになった。こんな話急に言われてもびっくりするだけで精一杯だった。

 でもできたらすごい。日本人演奏家の代表的なひとりの安永徹氏、カラヤンのビデオでおなじみのボルヴィツキー氏、このふたりと一緒に練習ができて演奏会ができて、ひょっとしたら一緒にご飯が食べられるかも、そして音楽のお話がたくさん聞けるかも・・・と思ったら事の重大さに恐れるより、ワクワクする気持ちのほうがまさっていた。

 そして、結局のところ1989年1月にこの大変な演奏会が実現に向けて動き始めたのだった。

 山下氏に後日聞いたところ、私がベルリンに電話したのはベルリンの時間で午後2時くらいだったらしいが、山下氏はほとんどその時間に家にいることはなかったそうだ。私が電話したときはなにがあったのかわからないが、たまたまいたという。何という偶然。となると、ちょうどその日にNTTの友達の寮に遊びに行ったのもすごいタイミングだったわけだ。NTTの寮で電話がただということを聞かなかったら多分ベルリンには電話してなかったろう。単なる偶然というより奇跡というべき事かもしれない。実はこの演奏会にはこういう奇跡みたいなことが数多く起きた。そのきっかけから正に奇跡的な始まりだったわけだ。

 ベルリンに電話して1か月ほどたったある日、NTTの井上さんから電話があった。国際電話はNTTとは関係ない。寮の掲示板に「国際電話を使ったものは正直に申し出ること」と張り出されていたという。結局15000円ほどKDDに支払った。考えてみれば実に当たり前の話で、NTTだから国際電話もただだと思うのは、間が抜けている。でも、この15000円はやすい。私が間抜けだったおかげですごいことになったのだから、何が幸いするかわからない。

 そしてぞっとするのは、もし、私に常識的な判断力があったらあのコンサートは無かったということだ。

●T氏

 9月に当時山下一史のマネージャーをされていたT氏がトレーナーとして熊本にやってきた。練習の内容はまさに目からうろこが落ちるとはまさにこのこと。こういうトレーナーに指導してもらったらきっといいオケになるだろうな、なんてのんきなこと考えていた。ところが・・・・・

 練習が終わってT氏と主だったメンバー数人で「むつ五郎」に行った。「むつ五郎」はN響が熊本に来たときのたまり場のひとつで、熊本名物、馬刺が有名だし確かにおいしい。ちょっと高めだが。

 「坂本さん、この演奏会はやめた方がいい。このオーケストラにあの二人がきても怒って帰ってしまうでしょう。あなたもずっと音楽をやっていきたいのなら、ここでこの演奏会はやらない方がいい。今からならまだキャンセルは充分間にあうよ。」

 T氏の本音でのアドバイスだった。これが私たちの目をさまさせるためのはったりならまだいい。そうではなくて本気で私たちを心配してのアドバイスだった。その場に居合わせた仲間はみんな一様に凍りついた。私はただ「一生懸命がんばります」としか言えなかった。でもT氏は「情熱だけで物事が解決する時代はもう終わったよ」

 T氏といっしょにいたM氏(NHKのプロデューサー)がだめ押しのように「坂本君、大人の世界は知らなかった、ではすまされないんだよ。」

 とにかく、ピンチだ。確かに甘かったかもしれない。ベルリン・フィルのソリストがアマチュアオケにくるということがどれほのことか認識不足だったかもしれない。

 でもその時の私には、やめるなどという発想は全く無かった。なんとかしてやることだけを考えた。

 私、「一生懸命がんばりますから、なんとかお願いします。」

 T氏、「あと3か月では、出来ることとできないことがあります。私が今日の練習でみなさんのオケを聞かせてもらった限りでは、絶対に無理です。今日の練習もあちこちメンバーが欠けているようですね。オケは全員が練習に揃うということがとても大切です。それは、アマチュアだからといって許されることではないのです。」

 「それにベルリン・フィルのソリストを迎えるということは、客席を満席にしなくてはいけないのですよ。坂本さん、できますか?」

 それまで、私たちのオケの演奏会では1800席のホールに1000人も入らなかった。

 絶体絶命のピンチ!

 でも、何と言われようとも結果は決まっていた。とにかく、絶対やる!その場ではT氏に「絶対にがんばってやりますから、よろしくお願いします」としかいえなかった。

 T氏と別れたのはその日の午前零時をまわっていたが、やれることは全てやろうということで、練習に来ていなかったメンバーに電話した。「何とかして明日の練習には来るように、遅刻も絶対にするな!」

 それから、数日後緊急総会を開いた。T氏から聞いたこと、絶対にやろうということ、そのために何をしていくかということ・・・・

 中には、そんなに大変なら私はできません、というメンバーもでてきた。そして、重い空気がただよいはじめたとき、「こうなったら、仕事を二つ持ったつもりでやろう。やれるだけのことをやるしかないじゃないか」とトランペットの岩井氏がみんなを励ますように発言した。そう、やれることをやるしかない。ほとんどのメンバーはこのチャンスをなんとかして実現したいと思っていたのだった。

 やれることをやるしかない。しかし、今までやっていたことをやってもだめだろう。今までやらなかったことでもやれることを見つけだしてやっていこう。こう決心した。

 T氏の影響力の凄さは今思い出しても鳥肌が立つ思いだ。世の中には凄い人がいる。初めてそう思った。

 結果的に、T氏には実によくしていただいた。東京の一流オケのから何人ものトレーナーを紹介していただいたし、コンサートを開くということについては、素人の私達に長年つちかってこられたであろうノウハウをたくさん教えていただいた。

 何が何でもコンサートを成功させなければならない。緊張感で身が締まる思いがした。それから、本番までの約3か月、朝の6時には目覚めてしまう日が続く。今まで経験したことのない緊張だった。

 ただ、練習をどんなに頑張っても客席をうめることはできない。1800の席をどうやって一杯にしたらいいのか。もうひとつ、大きな問題が残っていた。

●西・佐藤両氏

 練習はオケのほうでがんばるしかないが、観客動員については途方にくれるしかなかった。コンサートを開く熊本県立劇場はコンサートホールの収容人数が1800人とでかい。今までここに1000人くらいしか入れることができなかった。それをどうやって増やそうか。せめて1500は入らないと、かっこうがつかない。今までと同じ1000人ではベルリン・フィルのソリストに申し訳ない。

 でもどうしたらいいか全くアイデアはない。

 私の高校の先輩がやっている喫茶店「末次」の佐野さんは、音楽も好きだし頼りになる人で、今回も時々相談に行っていた。その佐野さんが「今度、うちに高校の先輩たちが集まるからその時に話してみたら?」といってくれた。わらをもすがる気持ちで行ったのはいうまでもない。

 その場に西さんという印刷屋の社長さんがいた。西さんは私の話を聞いて、「友達の佐藤という水道工事の会社の社長がいて、一緒に手伝ってあげようと思う。今度佐藤に会わせるからまた改めて出てこい」といわれた。

 そして、約束の場所に行くと、西・佐藤両氏がすでにきて私を待っていた。

「手伝ってやろうと思うが、本当にベルリン・フィルからくるのか?知り合いで音楽に詳しい人に聞いたら、名も知られていないアマチュアオーケストラにベルリン・フィルから来るなんて信じられない。おまえたち騙されているんじゃないか、といわれたが、本当にその人達は来るのか?」

 本当に来るのかと言われても、来ますとしかいいようがない。西・佐藤両氏も多少不安だったと思う。いくら同じ高校出身とはいえほんの数日前までは全然お互い知らなかったのだから。

 疑っても始まらないということで、両先輩達が動き始めた。その動きは半端ではなかった。

 まず、指揮者の山下って人物を見せろ、ということで練習をみにこられた。練習の後は熊本名物のお店に山下さん、オケのメンバー数人を連れていってくれておなか一杯食べて、焼酎をたらふく飲んで、2次会に行って、ラーメン食べてお開きとなった。ぜーんぶ西・佐藤両氏で払っていた。

「山下さんなら、本気で手伝うぞ。あの人は本物だ。俺たちは、音楽のことはよくわからないが、あの人は凄い」

 両社長は山下氏の人物にひとめぼれしたようだった。そえからというもの、山下さんやプロの音楽家を呼んでの練習のたびに練習後に食事に連れていってくれた。

 「いつもいつも、すみません」

 といっても

 「俺たちは音楽のことはよくわからない。俺たちはこれくらいしかできない。練習は自分達でがんばれよ」

 といわれるだけだった。

 本番の前日は月曜日で県立劇場など公立のホールなどは休館日で、練習場所が無くて困っていたときにふたりでなんと熊本県庁の地下大会議室を練習に使えるように手配してもくれた。それには、今の熊本市長で、当時県会議員だった三角氏の力添えもあったそうだ。

 何よりも彼らふたりに感謝しなくていけないのは、チケット販売だ。コンサートの1か月前の12月、両社長はチケット販売に奔走してくれた・・・らしい。

 私は全く知らないところで仕事もほったらかしでやっていたようだ。後日、佐藤さんの会社の人と話す機会があったが、「12月は毎日西さんが会社にきてうちの社長と仕事もしないでチケット売りにでかけていった。まったく困ったものでした。」

 結果的にはどれくらいの観客が入ったかは第8章の「Probe・本番」にゆずる。

 これを読む人のほとんどが理解出来ないと思う。ただ同じ高校出身というだけでここまでするなんて。

 まったく常識をこえた馬鹿みたいにいい人たちだ。いい人というだけでなく、先に書いたように彼らが山下氏に人間的にほれ込んだというのがエネルギーの源だったのだろう。そして、これは熊本の文化にとって必ずプラスになるという確信もあったはずだ。

 このコンサートで、このような人達に出会えたことは想像もしなかった私の宝物だ。

 バーンスタインが「私にはふたつ好きなものがある。音楽と人間でどちらがより好きかなんて言えない」ということを言っているが、全く同じことをこのコンサートで私も感じた。

●練習

 このコンサートを成功させるためになんといっても一番重要なのは練習だ。ベルリン・フィルのコンマスと首席ソロチェロ奏者と共演するためにはどんな練習をしたらいいか??そんなことわかるわけがない。ただただ、指揮者の山下氏、それからT氏が紹介してくれた各トレーナー氏の指導を素直に聞いて個人個人が練習に励むしかない。

 アマチュアオーケストラの中には自宅ではほとんど練習しなくて、合奏のときだけ楽譜を見るというところもあると聞いている。アマチュアで楽しむことを目的とするのならそれでもいい。しかし、この場合はそんなのんきなことをいってはいられない。

 とにかくできることはすべてやろう。

 ではなにをやるか?今までの練習を考えてみた。ひとつ気付いたことはけっこう毎会の練習で同じこと注意されているということ。つまり、練習で指揮者、トレーナーの言ったことを覚えていないのだ。1回の練習が3~4時間あるわけでその間のことを全部覚えておくのは不可能なことだ。だから、これまでは「1回の練習でひとつでも身についたらいい」こう考えていたが、甘かった。

 ここで、話題はそれるがこのことについて考えてみたい。

 アマチュアオーケストラ界には大きくふたつの考えかたがある。ひとつは、アマチュアなんだから楽しむことが第一であまり厳しいこといわないほうが長続きする、というもの。もうひとつは、アマチュアでもオーケストラでお金をとってコンサートするのなら責任が取れる内容のものをするべきで、したがって音楽的に出来る限りのものを追及するべきだ、というもの。

 そして、たいていのオーケストラはそのふたつの考えをある程度あわせもっているものだろう。

 私はもちろん後者の考えだが、このふたつのスタンスには、どちらが正しいということはない、とおもっていた。アマチュアだし、趣味の集まりだからメンバーの考え方さえ一致していれば他人がとやかくいうことはなく、本人が満足してさえいればそれなりに意義はある。こう考えていた。

 このコンサートをするまでは。

 今は、微妙に違う。アマチュアだからといって甘えた考えでやってはいけないのではないか。お客さんに失礼というより、音楽に対して失礼だと思う。音楽にたいして誠実に取り組んだら得られるものは莫大でアマチュアでも出来る限りがんばったほうがいい。少なくとも私はただ楽しむためのアマオケでひく暇はない。

 話を戻す。練習の内容を忘れるのが当たり前だったのをどうしたらいいかと考えて単純な方法だが毎回録音することにした。録音してきく。1週間後に練習のテープを聞くと、練習のときは感動したことも忘れることがけっこう多い。4時間の練習のテープを聞くには4時間かかる。この方法はとてもいいが、とても時間がかかる。もしこれが今回のような状況でなかったらすぐにめげていて長続きしなかっただろう。でも、この時はやれることはすべてやるときめていたので最後までやることができた。

 車を運転するときは、ほとんどこのテープを聞いた。義務感から始めたが、これ、とってもおもしろかった。

 それから、弦楽器はひとつのパートを数人で一緒に演奏する。だから自分がどの程度できているのかはなかなかわからない。ごまかそうと思えばいくらでもごまかせる。楽器を弾くことよりごまかすのが実にうまい人もいる。

  室内楽ではそういうごまかしがきかない。そうだ、室内楽で練習すればいいんだ。

ということで新しい練習方法が始まった。名付けて「カンマープローベ」

 ドイツ語で室内楽は、「カンマームジーク」練習は「プローベ」。その2語を組み合わせて「カンマープローベ」という言葉を作った。カンマープローベのやり方は、弦楽器各パートひとりかふたりずつ集合。そして、トレーナーが音の長さ、正確なリズム、それから楽譜に書いてあることを丁寧に練習していく。

 こうやると合奏では自分でも気づいていないことがたくさんわかる。ひとりだけ違うリズムで弾いてることがこのカンマープローベではよくわかったりする。とても画期的な練習だと思う。

 唯一の欠点はトレーナーが大変なこと。トレーナーは同じことを何回も何回もしなくてはいけない。大体同じ練習を5回すると全員をカヴァーできる。その時は私とコンマスの清永君がトレーナーをやったが、当時私は熊本市から一時間以上離れたところにすんでいたので、往復するだけでも大変だった。でも、効果はてきめんだったと思うし、自分自身の勉強にもなった。

 また、この時から通信の発行を始めた。題はモーツァルトの名前からもらって「AMADEUS」。

この「AMADEUS」を書きまくった。練習計画から、山下さんや、各トレーナーから教えられたこと、コンサート情報など盛りだくさんの内容でこれも自分で言うのも何だがかなり役に立ったと思う。

「AMADEUS」にベルリンについて書いたことがある。これは、ファゴットの蓮沼君の一言がきっかけだった。「えっ、ベルリン・フィルって西ドイツのオーケストラなんですか?」

 オケのメンバーに聞いてみると、けっこうみんな知らない。ベルリン・フィルが西ドイツのオケであることを知らない人が半分くらいいたのだ。それどころか“ベルリンの壁”という言葉は知っているので、ベルリンは西ドイツと東ドイツの境界にあると思っている人もとてもたくさんいた。私は旅をしていたし、ウィーンに留学している日本人の友人から共産圏についての話を聞いていたのである程度の事情は知っていたが、もし私にそういう経験が無かったら同じように無知だったかもしれない。

それで、ベルリンの壁がどうして作られたのかということ、西と東の暮らしぶりの違いなどを書いた。多くの人にこれも感謝された。

「カンマープローベ」にしても「AMADEUS」にしても練習を録音して何回も聴くことも、すべてとにかく何でもいいからできる限りのことをやってやろうというところから出てきた行動だ。人間、いざとなったら普段では考えられない力を発揮するものだ。

●1月8日(本番二日前)

 熊本空港に山下一史、安永徹、オットマール・ボルヴィツキーの3氏が降り立った。

 いよいよ、おいでなすったか。この日のために今まで努力を重ねてきただけに、この時生まれて初めて武者震いというものを経験した。空港の出口を見つめる。3人ともオーラすごい。圧倒的な存在感だ。3人と握手をしてほとんど挨拶する間もなくタクシーに乗り込みホテルへ。後は、夕方の練習までまな板の鯛の心境で待つ。

 その日の夕方、本番の演奏会場である熊本県立劇場コンサートホールでの初練習がはじまった。

「このオーケストラにベルリン・フィルの二人がきたら怒って帰るから、この演奏会はキャンセルしたほうがいい。絶対にそうしたほうがいいです」

 T氏の言葉が私だけでなくオケ全員の頭にこびりついて離れない。本当に彼らが怒って帰ったらどうしよう。全員が極度の緊張のなかで、しかし、やれることはやったという自信も確かに持ってブラームスを始めた。ブラームスのドッペル・コンチェルトは冒頭4小節のトッティのあとに長いソロが続く。二人のソロを聴きながら当たり前だが眼前に次元の違う音楽が展開されていくことに驚き、それを聴ける喜びとさらなる緊張感をもって、次のオーケストラだけの長い呈示部を待った。

 ここまで努力して身につけたものを全部出し切るしかない。この時、我らがThe Sinfonietttaの音はひょっとしたら本番を越えた究極の音がしていたかも知れない。

 ちらちら、ソリストを見ているとなんということか!ボルヴィツキーが安永さんを見て笑顔で話しかけているではないか!!!

 今でもボルヴィツキーのこの笑顔は、はっきりと私の目に焼き付いている。オケの仲間もこの時ここ4か月の努力がいっぺんで報われた瞬間だった。

 あとの練習はは、とにかく感動の連続だった。ずっと持ち続けてきた不安が一気に解消されたものだからただただ音楽に浸ることができた。練習はたっぷりやっていたらみんなほとんど暗譜状態だった。指揮、ソロは本物の音楽家で、オケの方も準備ができているとこんなにもオーケストラで弾くことが楽しいものとは。先にも書いたが、だから、アマチュアでも絶対に甘く取り組まないで、真剣にやったほうがオーケストラは絶対おもしろい。オケを100倍楽しむ方法は、精一杯がんばることだ。

 休憩時間にボルヴィツキーが興奮気味に山下さんに話している。このオケはいい!!と。

「坂本、ボルヴィツキーも安永さんも、本当に喜んでいるよ」山下さんも実に嬉しそうだ。

 それにしても山下さん、よくあの二人を連れてきてくれたものだ。ベルリンでたまたま出会った私の一本の電話だけで安永、ボルヴィツキーと共演のチャンスを与えてくれたわけだ。これは、無鉄砲、悪く言えば無責任とも言える行動だ。T氏もきっと山下さんに苦言を呈したのではないか。

 しかし、その山下さんの無鉄砲さが私達には最高のプレゼントになった。

●1月9日

  この日は西・佐藤両氏のお膳立てで、田尻熊本市長、細川熊本県知事への表敬訪問にいった。ふたりともコンサートにきてくれた。

 細川氏の本「鄙の論理」の中にベルリン・フィルのことがでてくる。ベルリンという街は特に観光名所というのはないが、ベルリン・フィルがあるだけで世界中からひとが押し寄せてくる。地方都市にはそういう魅力がひとつでもあれば活性化する。という内容だったと思う。ここでベルリン・フィルを引用されたのは、あのとき細川知事が安永さんたちに会ったからだと私は思っている。

 この日の練習は三角(当時県会議員)氏のお陰で熊本県庁の地下大会議室を使うことができた。残念なことに安永さんは体調が不調でホテルで休まれることになった。ボルヴィツキー氏も来ないのか思ったが、一人でやってきてオケのためにエックレスのソナタから1曲弾いてくれて、なんとベートーヴェンの第2交響曲では私のとなりで一緒に弾いてくれた!

 カラヤン、アバド・・・世界のトップ指揮者たちと30年以上仕事をしてきた名物首席チェロ奏者と一緒にベートーヴェンをひく。この経験は一生の宝物だ。ボルヴィツキーのチェロは美しく、ものすごい存在感があった。こんなチェリストが並んでいるベルリン・フィルが世界一なのは当たり前だ。

 今思い出してもこの時ほどチェロを弾いていて幸せだったことはない。   

●本番

 いよいよ本番の日を迎えた。練習はここまで頑張ってきてもうこれ以上やることはできないから、楽しんで演奏するだけだ。きっといい演奏会になることは確信が持てたが、最後まで心配だったのはお客さんの入りだ。もし、がらがらだったらどうしよう。せっかく、練習はうまくいっていい演奏になることは間違いないのだが、このお客の入りのことはその日にならないとわからない。

 ゲネプロを終えて私は、楽屋とホールの入り口を行ったり来たりして落ち着かなかった。

 本番30分前になると、入り口から長ーい列が出来始めた。これで一安心。どきどきしながら開演時間を待った。

 当日は珈琲屋「末次」の佐野さんが受付を一手に引き受けてくれていた。楽屋からそろそろ開演したいということを館内の電話で佐野さんに尋ねた。

「まだまだお客さんが続々と来ているから開演を少し待って」

開演時間過ぎてもまだたくさんの人が来ているらしい。なかなかお客の列が切れずに結局コンサートが始まったのは異例の15分遅れ。

 ステージに出てみると超超満員!!立ち見もたくさんいるようだ。(結局1800の席に2200人入った。後日消防法違反ということで県立劇場に呼び出され始末書を書かされたが、書く私もニコニコ、対応された劇場職員の岩永さんも「大成功おめでとう」ということでニコニコ。始末書を書くということは、要するに怒られるということだが、書く方も書かせる方も幸せだった。たった一枚始末書書くだけでいいのならお安いご用だ)

 演奏会はとにかく大成功。一曲目のベートーヴェンの第2交響曲はブラームスの二重協奏曲に比べると話題の面でも地味で、ベルリン・フィルのソリストを聴くための前座という雰囲気があったがこれもまた大好評。聴いた人の話では、オケ全員が確信を持って弾いていたとのこと。このベートーヴェンだけでも事件的な名演だった。

 ブラームスは当然の超名演。2200人、つまり立ち見が400人のお客さんも一体となってブラームスの音楽を堪能した。

 あの二重協奏曲はとんでもない名曲だと思う。ブラームスの作品の中では特にポピュラーとはいえないが、晩年の作品らしく内容の深さではブラームスの作品の中でもトップクラスだと思う。第2楽章の深い祈りに似た歌を安永さんボルヴィツキーの二人が歌い尽くした。

 アンコールでブラームスの2楽章をやって、感動のうちにコンサートが終わろうとしていたとき思いがけないことが起こった。安永さんたちがカーテンコールを繰り返しているとき、最後に私のところに握手しに来てくれたのだ。コンマスでなくチェロの私のところに来てくれたのだ。これまでの大変な努力がいっぺんにふっとぶ最高の出来事だった。  

●安永徹

 熊本のコンサートの2日後、福岡郵便貯金会館で同じく山下一史氏の指揮、九州交響楽団の演奏で、安永徹、オットマール・ボルヴィツキーのソロでブラームスのドッペル協奏曲のコンサートがあり、当然聴きに行った。演奏会そのものは何しろ思い入れが違うので熊本のように感激はできなかった。

 コンサート終了後楽屋にあいさつに行った。安永さんが開口一番「坂本さんこれから時間ありますか?一緒に御飯食べに行きましょう。

 安永さんと共演できただけでも名誉なことと思っていたが、その上安永さんのお膝元の福岡で一緒に御飯を食べにいけるなんてまたまた大感激だ。「ひょうたん」という郵便貯金会館から歩いて10分ほどにある和食のお店に行った。

 「ひょうたん」には安永さんの昔からのお友達を含めて20人ほどいただろうか。初対面の人も多かったが、皆さんいい人ばかりでとても楽しく話ができて、したたか飲んでしまった。私は熊本の演奏会が無事に終わった開放感もあって、かなりなハイ状態だったと思う。

今でも福岡で安永さんの室内楽、リサイタル、ベルリン弦楽ゾリステンなどのコンサートの後に時々「ひょうたん」にご一緒させてもらっている。音楽の深い話を聞ける貴重なチャンスでいつもとても楽しみにしている。

 1989年、冬のベルリンに旅行した。12月の終わり、つまりジルヴェスターコンサートのシーズンだ。最初は安永さんが安いいいホテルを予約してくれるということになっていた。だが何しろ1989年といったらベルリンの壁が崩壊した直後で世界中からの観光客がベルリンに殺到していた。テレビでそのころよく見た壁を金槌でたたき壊している風景そのものがちょうど見られていたころだ。ホテルがほとんど全部ふさがっている。空いているホテルもあるが、シングル一泊3万円くらいもする所しか空いていないという状況だった。 

 それでその年の秋に安永さんと例によって福岡の「ひょうたん」で会ったときになんと「うちに泊まりませんか?」と言ってもらった。安永さんも本当に優しい人だと思ったのは、安永さんからの提案を私が遠慮していると思ったのか、私が一人先にお店を出た後安永さんもわざわざ外まで出てきて「坂本さん遠慮したらだめですよ。とにかく西ベルリンに入ったら電話して下さい。」とまで言ってくれたのだ。

 本当に夢のようなことですぐには信じられないようなできごとだった。

 実際、その時はプラハからベルリンに入ったが、電話をして奥さんの市野あゆみさんがいる安永さんの自宅にタクシーで行った。その日は12月30日でジルヴェスターの前日。同じプログラムで演奏会をやっていた。ビールをごちそうになり、パソコンでゲームをして遊んでいると安永さんが仕事から帰ってきた。その時指揮者の本名徹次さん夫婦も一緒だった。本名さんも勉強しにベルリンにいらしたのだ。そこで、安永夫婦、本名夫婦、そして私の5人で御飯を食べに行った。ドイツ料理のお店で私は鹿をご馳走になった。

 次の日つまり12月31日はジルヴェスター当日で安永さんが取ってくれたチケットを持ってフィルハーモニーに聴きに行った。(ジルヴェスターのチケットはコンマスでも簡単には取れないらしい)安永さんのアウディに乗って、しかも途中で首席チェロ奏者のファウストを拾っていった。楽員専用駐車場に入ると駐車場係が安永さんににこりとほほえむ。隣を見るとクラリネットのライスターが車から降りていた。

 コートは安永さんが自分専用の部屋に預かってくれた。

 コンサートのことも書いておこう。小沢さんの指揮で「カルミナ・ブラーナ」。晋友会合唱団が参加するということが話題のコンサートだった。確かにすばらしい合唱だったし、ベルリン・フィルの威力も充分に発揮されて興奮する音楽が展開されていった。だけど一番印象的だったのはソプラノのキャスリーン・バトル。

 「カルミナ・ブラーナ」のソプラノは出番が少なくてしかも最後の方にしか出てこない。その少ない出番が最高だった。ソプラノの出番が来てバトルが椅子から立ち上がると。会場全体のお客さんもここが聴き所とばかりに少し身体をのりだす。それによる衣擦れが会場中にざわざわと広がっていく。そしてバトルの大きくはないが実によく通る美声で、しかもゆったりとしたダンスのような歌いぶり。私ももちろんみんなか心から堪能してバトルの歌が終わると小さい小さいため息みたいなものがこれまたフィルハーモニーに広がっていく。

 バトルの歌もすばらしい。しかもベルリンのお客さんも音楽を楽しむすべをよく知っている、と感じさせる一幕だった。

 コンサ-ト終了後、楽屋でボルヴィツキーに会った。彼もニコニコ顔で、よくベルリンにやってきたなということ、よい新年を迎えるようにということを早口の英語で言って去っていった。

 その日はベルリン・フィル1stバイオリンのペーター・ヘルマン氏の家での大晦日のパーティにご一緒させてもらった。同じバイオリンのアレッサンドロ・カッポーネ夫婦も来ていた。(当時は奥さんはベルリン・フィルのメンバーではなかったが、今はベルリン・フィルで夫婦仲良くひいている)。

言葉が不自由でもどかしいこともあったが、貴重な体験でおもしろかった。その時来ていた人たちはベルリン・フィルをいやというほど聴いている人たちばかりなので、今までのベルリン・フィルの思い出などいろんな話をゆっくりとした英語で私に話してくれた。

 パーティから帰って、安永さんのリビングでレコードを聴きながらたくさん音楽の話をしてもらって、最高に幸せな新年を迎えた。元日は市野あゆみさんの手作りのお雑煮をご馳走になった。

1996年、大阪

 ベルリン・フィル来日公演、この年は大阪に聴きに行った。日本の前はアメリカ公演をやっていたので、疋田さんから安永さんのニューヨークのホテルのファックス番号を聞いてそこに大阪に行くということを連絡した。数日後電話があって「大阪で会いましょう。リハーサルも入れますよ。」ということを聞いた。これまた何という幸せ。

 大阪でマーラーの「復活」のリハーサルを見ることになった。リハ-サルの15分前に楽屋口で安永さんと待ち合わせた。続々とベルリン・フィルのスター達が入っていく。アバドもふつうの格好で私の1メートルほど前を歩いていった。私の妻はこのときアバドが自分を見てほほえんでくれたといって喜んでいる。

 安永さんに案内されて一階ほぼ中央の席に座る。リハーサルの内容は全曲を通してごく一部を摘んでいくというやり方。私はベルリン・フィルの練習を目の前で見られるということで興奮したが、メンバー達はリラックスしているようだ。3楽章の冒頭ではティンパニのゼーガースがわざとでっかい音でみんなを驚かしたり、2楽章の弦楽器だけのピチカートの部分では、ベルリン・フィルの弦楽器奏者達がものすごい自発性を発揮してアバドが苦笑するほどアンサンブルをしていた。(このときの様子は現場を見ていないとわからないと思う。表現は難しい)

 この時の舞台裏の指揮者は岩村力さんで、彼はその直前のThe Sinfoniettaの指揮をしていた。岩村さんが、「ほとんどザイフェルトがひとりでやってしまうから僕は何もやることないよ」と言っていた。そして「舞台裏のホルン、聞こえる?」と聞かれた。実はリハーサルの時にほとんど聞こえなくてこれでは小さすぎるかなと思っていたので、そう伝えた。岩村さんは分かった分かった、と言ってにっこりした。本番では少し大きくなっていてちょうどよい大きさで遠くから聞こえる感じがよく出ていた。これは私のひとことがアバドの「復活」に影響を与えたということで、一生の自慢だ。

 リハーサル終了後、安永さんと「サバの味噌煮とうどん定食」を食べた。この時も最近のベルリン・フィルのことをたくさん聞いてとてもおもしろかった。

●山下一史

 このコンサートの後、続けて山下さんと3回のコンサートを一緒につきあっていただいた。

 この3回で学んだことは莫大で今でもThe Sinfonietta、そして私にとっても音楽をやるときの大切な基本になっている。

 練習、本番はもちろんだが山下さんと熊本県立劇場の本田さんによって始められた指揮法セミナーも素晴らしい内容で多くのことを学ぶことができた。

 指揮法セミナー、初回は安永さんと最初に共演した1989年1月。そのときは私はオケの中で弾いていて、指揮法のレッスンを外から見ているだけだったが、あまりにおもしろくて次の年からは続けて自分自身で受講することにした。山下さんがカラヤンのアシスタントだから私は正真正銘のカラヤンの孫弟子なのだ。

 ふつうのひとはもちろん、音楽をやっている人の中にも指揮者の意味というか役目をよく知らない人が多いと思う。私もこの指揮法セミナーをみてから、いままでなんとなくしかわかっていなかった指揮者の仕事についてかなり明確に理解できるようになった。

 本当に指揮者によって音楽は変わる。山下さんの指揮法セミナーはもちろんプロの指揮者を養成するためのものでなく、学校の音楽の先生やアマチュア合唱団、オーケストラ、吹奏楽などの指揮者対象なので指揮法といってもごくごく基本的なことしか指導されなかったが、それでも指揮者の影響はとても大きい。

 指揮者が演奏する曲に対して、テンポ、バランス、キャラクター、構成、音色、などなど明確なイメージを持っていないとオーケストラは安心して弾けない。細かいことで言えば、重要なパートは見るだけで音が変わることとか、ずれてきたときは小さく振ることとか(小さいと指揮棒を見る個人個人の誤差が減るので合いやすくなる)とか。そして実際に指揮するとその通りになるのがおもしろい。

*2006年5月。山下さんが仙台フィルの正指揮者就任コンサートが開かれ、それを仙台で聴いたことにより、「熊本にプロのオーケストラを!」という発想にいたった。僕の音楽人生の要に山下さんがいるといってよい。2012年に山下さんの指揮による演奏会形式の「カルメン」もすばらしかった!

●奇跡-2

 コンサートの会場は当然、熊本県立劇場(県劇)ということになる。全国的にも音のいいホールとして有名だ。この演奏会でももちろんここ以外は考えられないのですぐに予約をした。山下さんと相談して第一希望は1989年1月8日(日)ということにした。我々アマチュアはどうしても仕事の都合があるので、日曜日の本番でないと困るのだ。

 県劇は1年前から予約ができる。そして、もし予約が重なった場合は、厳正な抽選でどこが使うか決定されるのだ。このコンサートのときは、他の団体の全国大会と重なってしまった。

 抽選は指定された時間に県劇に行き(1分でも遅れると、抽選に参加する資格もなくなる)くじを引くことになる。日曜日にできないとなると、いろんな面で大変なことになる。なんとしても当たりくじを引かなければならない。

 抽選当日、かなり時間的な余裕を持って県劇に行った。当然、競合団体の方も時間前に来ておられた。最初は話し合いで解決できるならということで、お互いに事情を説明したが、双方ともここはどうしても譲れないということで、抽選しかない。県劇の担当の方の指示でくじを引いた。

 みごとに外れ。

 結局第2候補の1月10日(火)になった。

 平日開催ということになり少々焦ったが、仕方ない。オケのみんなには早くから仕事の調整をしてもらうように頼むしかない。

 ところがこれがとんでもなくラッキーなことになろうとは・・・・・

 1989年1月7日(土)。昭和天皇崩御。

 世の中は歌舞音曲禁止、ということでたくさんのイベントが中止された。1月7日に安永さんたちは読売日本交響楽団で、やはりブラームスのドッペル・コンツェルトをライブ収録することになっていた。ところがこの事態なので、急遽お客を入れないでの収録になったらしい。

 喪に服すのは3日間。The Sinfoniettaの本番の1月10日というのは、喪が明けたまさに最初の日だったのだ。

 こういう、状況も手伝って、第7章「本番」にも書いたように、400人が立ち見というとんでもないことにつながった。

 もしあの1年前のくじ引きで、私が外れくじを引かなかったら、演奏会そのものが流れていたかもしれない。

 このコンサートは、数々の奇跡に助けられて実現したのだ。

 話は、がらりと変わって、1984年の私の初めてのヨーロッパ旅行。旅行に出て2週間ほどたったころ。旅にも慣れはじめ、そして少し日本が恋しくなってきたころ、鉄道でミスをした。スイス国内で鉄道に乗り間違えてしまったのだ。

 本来はどこに行くつもりだったかもう忘れたが、とにかく、どうやら乗り間違えたことに気付いた。夜の7時くらいで外は真っ暗。そしてその時はコンパートメントには私一人しかいなかった。さすがにその時は心細くなってしまった。時々停まる駅の名前を見てもまったく知らない地名ばかり。

 しばらく暗くなっていたが、「これのたびの楽しみのひとつだ。」と思い直して、次に停まった駅で降りてそこでホテルを探そうと決めた。

 そしてThunという駅で降りた。そこはとても小さい町で、駅のインフォメーションはとっくにしまっている。これは歩いて探すしかないと思っていると、なぜか駅付属の郵便局は開いていた。そして、その郵便局でホテルのことを聞いた。しかし、「ホテルはその辺にあるよ」くらいにしか教えてくれなかった。本当に歩いて探すしかないと思ったとき、電話ボックスが目に付いた。

 心細くなっているときだったので、親の声が聞きたくなった。それでコレクトコールで電話してしまった。

 その時はスイスの時間で夜の8時ごろ、日本では夜中の4時だ。そしてコレクトコールなので親にこの電話をつないでいいか確認をとらなくてはいけない。英語がほとんどできない親に、いきなり夜中の4時に訳の分からない英語の電話がかかったわけだ。親としては、私が事故にでも遭って、病院からでもかかったのでは、と思ったらしい。つい心細かったのでミスしてしまった。

 電話に出た父がびっくりしていたので事情を話し、自分は無事で問題ないことを伝えたが、親はその夜は心配でその後も寝付けなかったという。

 私の方は、親の声も聞き、歩いて探すしかないとわかったので、晴れ晴れとした気分で暗い町に歩き出した。ホテルはすぐに見つかった。

 最初に見つけたホテルはいささか高かったので、もっと安いホテルを紹介してもらいそこにチェックインした。

 そのホテルは1階がレストランになっているヨーロッパによくある安ホテルで、地元の人でにぎわっていた。部屋に荷物を置いてすぐにレストランに直行した。

 たぶん日本人が珍しいのだろう。何人もの人が話しかけてきてついさっきまでは心細い思いをしていたことなど忘れて、大いに楽しんだ。

 次の日の朝、散歩してみてわかったが、このThunという町は湖に面したとてもきれいなところだった。その日は湖にうっすらと霧がかかり幻想的な風景で、昨日乗り間違えたことに感謝したくなった。町の公園にはうっすらと雪が積もっていてその雪の中から小さい小さい花が咲き出していて、何とも言えず幸せな気分になった。

 The Sinfoniettaの本番も近くなり、ブラームスのドッペル・コンツェルトの練習も進んでいる中、この曲について調べていた。そうしたら、意外なことがわかり驚いてしまった。

 「ブラームスはスイスのThunが好きでよく訪れていた。そこではドッペル・コンツェルトなどの名作が生まれた・・・」

 私にとって運命的な曲であるドッペル・コンツェルトとは5年も前にこんな形での出会っていたのだ。

 あの時心細かった列車乗り間違えは、ブラームスの霊に導かれていたのかもしれない。


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